「和歌」
後鳥羽院は、建久9年(1198)、第一皇子にあたる土御門天皇に譲位した後、院を構えて様々な事業を進められます。とりわけ詩歌に情熱を注がれ、近臣たちとの詠作を通じた活動の中で藤原定家や藤原家隆らの才能が認められていきました。そして、建仁元年(1201)和歌所を設置し、勅撰『新古今和歌集』の編纂にあたらせました。
この『新古今和歌集』は元久2年(1205)に完成披露の催しがされましたが、その後も後鳥羽院は手を加えておられます。それは海士に遷られてからも続き、『隠岐本新古今和歌集』として伝わっています。その他に、隠岐の代表作として知られる『遠島御百首』をはじめ、800首近い歌が残されています。ご在島中、院のお心を支えたのは歌の道であったのかもしれません。
なお、隠岐の伝承によれば、院の代表歌である「我こそは新島守よおきの海のあらき波風心してふけ」は、院の御船が海士にご到着の直前に海が大しけとなったところ、この歌を院が船上で詠まれると嵐がおさまったとしています。今では隠岐の人々にとって特別な歌となっています。
以下は、ご在島中の和歌に関する代表的なご活動です。
『遠島御百首』
隠岐に遷られてから早期にまとめられた百首和歌。「春夏秋冬」に「雑」を加えた5部に分かれており、海士の四季折々の情景に、時には美しさを、時には都への想いを覚えながら詠まれたと解される。
『(隠岐本)新古今和歌集』
元久2年(鎌倉初期)に後鳥羽院の指揮のもと、完成を迎えた『新古今和歌集』であったが、院はその補訂を隠岐に遷られた後も続けられた。遠島の地では作品を増やす事はままならない。よって院は自らの手により完成された『隠岐本新古今和歌集』では、作業の過程で院御自身の歌が多く削除されたという。
『遠島歌合』
隠岐に遷る以前より院に仕えた歌人・藤原家隆と共に執り行った歌合せ。歌合せとは、相対する歌人同士が短歌を詠み合い、その出来を競う催しである。後鳥羽院は隠岐の地にありながら、書状を用いて在京時に劣らない歌合せを成立させた。
この歌合せにおいて、後鳥羽院は自身の作品と家隆のものとを競わせ、ただ一首の短歌を除いて家隆の勝ち、または引き分けとした。それが、次の一首である。
軒はあれて 誰れかみなせの 宿の月
過ぎにしままの 色や淋しき
賓客である家隆の短歌を退けてしまうほどに、後鳥羽院の都への郷愁の念は強いものであったのだろう。
「刀剣」
後鳥羽院は刀剣の文化にも関わりが深いことで知られます。刀剣に情熱を注がれた理由として、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」にまるわるエピソードが有名です。
後鳥羽院のもとに仕えた刀匠は、後に「御番鍛冶」と称されるようになりました。院自らも作刀をなされたとの伝えもあるほどで、刀の価値や刀匠の地位を高めたのはもちろんのこと、自らの手で最高のものを作り出そうと先頭に立つお姿が日本の精神文化に影響を与えたとされます。
その由緒により、隠岐神社創建時、昭和の名匠から「昭和御番鍛冶」を選定し、院を祀る神前に相応しい昭和の名刀が奉納されました。なお、その刀剣は海士町後鳥羽院資料館に展示されています。
「菊の紋」
後鳥羽院のもとで生まれた刀剣の内、院の目に特に適った作品には、院がお認めになった印しとして菊花紋が刻まれました。この作品は「菊御作(きくごさく)」と称され、刀剣文化史上の名作として知られます。そして、この菊花紋が、現在の皇室の菊のご紋章の起源とされています。
「牛突き」
今でも島後で盛大に行われている牛突きは、後鳥羽院にまつわる神事とされています。隠岐に渡られた後鳥羽院は、海士の南端にある崎に上陸され、氏神神社である三穂神社に一晩お泊りになりました。翌日、陸路で行在所に向かわれることとなりますが、その途中、国原(くんばら、今の海士町の西地区)のあたりの牧で牛が頭を突き合わせていたのをご覧になります。その様子が、都で目にされた『鳥獣戯画』の一部に似ていたことから、院はお喜びになられました。この伝承を機として、かつては後鳥羽院神社の祭礼日に、院の御霊と島民がともに楽しむ神事として「牛突き」が続けられてきました。
残念ながら、その始まりの地である海士においては、明治以降は定期的な牛突き奉納は途絶えてしまいました。
「蹴鞠」
蹴鞠は中国から仏教の伝来と共に伝えられたといわれています。その当時の形が、現在私たちが目にする蹴鞠と同じであったのかは不明です。平安時代になると鞠を蹴り上げる蹴鞠が行われたことが確認されており、一条天皇(在位986-1011)の頃には蹴鞠が宮廷貴族の遊戯として流行しました。天皇として初めて蹴鞠をされたのは後白河天皇とされ、その孫の後鳥羽院も蹴鞠をとても好まれ、「此の道の長者」と称されたと伝わります。後鳥羽院の時代に作法や次第の基が出来たと伝わります。
『後鳥羽院御記(後鳥羽院御鞠之書)』では沓や 襪(しとうず:沓下)のはき方に関する記述がみられます
「琵琶」
音楽はいつの時代も人々に愛され、音色や歌声は心を動かします。日本で古くからある楽器の一つ琵琶は、奈良時代に中国から伝わったものとされます。
当時としては最先端の楽器であり、独特の音色には霊力もそなわっていると考えられ、宮中でも人気となりました。その名品とされる「玄象(げんじょう)」は、天皇の王権を象徴する累代の宝物とされ、天皇が秘曲を伝授(奥義を極めるために弟子が師匠から授かる曲の相伝)された後に奏でることが出来たとされます。
後鳥羽院は、帝師である二条定輔より元久2年(1205)に秘曲を伝授され、この玄象を用いるに相応しい音楽界の帝王ともなりました。なお、伝授された元久2年は、院が力を注がれた『新古今和歌集』の完成披露の催しの年でもありました。
「笠懸」
多芸多能の後鳥羽院は学芸に通じるだけでなく、体格にも恵まれ武芸も得意としていました。
院の勇壮ぶりを伝えるエピソードとして有名なのが、盗賊退治です。当時都を騒がせていた盗賊がおり、院は配下の武士にこれを捕まえるように命じます。しかし、盗賊はこれをたくみにかわしてゆき、なかなか逮捕にいたりません。そこで、院自らが陣頭指揮を取り、この盗賊を川辺においつめます。そして最後は、院が船の舳先に立ち、櫂を振り回して盗賊の動きを止め捕まえたというものです。その後、この盗賊は院の部下となったとのことです。
当時の天皇や貴族については、宮廷での儀式や文系事業というイメージもありますが、実際には武芸もたしなんでいました。特に後鳥羽院は、狩や水練など、これまでの天皇があまり関わっていなかった分野にまで興味を示され、武士からも憧れの存在となっていたようです。
その中でも好まれたのが「笠懸(かざがけ)」でした。笠懸は流鏑馬の余興から生まれたもので、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んにおこなわれた武芸です。鎧を着て馬を走らせ、矢で的を射抜く流鏑馬とは異なり、烏帽子、直垂姿で笠や笠状の板を鏑矢で射るもので、院は御家人の平賀朝政を師として鍛錬を重ね、上達されました。
「相撲」
奈良時代に行われた貴人による相撲観覧は、平安時代に入ると「相撲節(すまいのせち)」と呼ばれる朝廷の7月恒例の年中行事となりました。相撲節の形が整えられると、平安後期には神仏に見せる相撲が芸能の一つとして祭礼で行われるようになりました。
平安末期に、相撲節はすたれましたが、相撲そのものは後鳥羽院が院御所で守っておられたと伝わります。藤原定家の『明月記』元久2年(1205)7月27日条にも記載あり。